ムェヒン・カワ(Mwehin Kawa)
建設・定住の時代
人々が島に住み始め、集落や祭壇が築かれた時代。考古学では紀元後1〜2世紀頃の生活の痕跡が確認されています。口承では、祖先たちは「カタウ」と呼ばれる遠い土地から航海してきたと語られています。

HISTORY & CULTURE
世界遺産ナンマドールを生んだ島の、三千年の物語。
ポンペイの魅力は、美しい海や熱帯雨林だけではありません。約1,000年前、この島には南太平洋でも類を見ない巨大な石造都市ナンマドールが築かれ、王が島を治め、人々は自然を敬い、独自の文化を育んできました。
その後、スペイン、ドイツ、日本、アメリカによる統治を経て、現在のミクロネシア連邦へ。小さな島に、驚くほど厚い歴史の層が重なっています。
そしてこの島には、歴史だけでは語れない神話や伝説も数多く息づいています。このページでは、研究で明らかになっている事実と、今も語り継がれる伝承を分けてご紹介します。
Pohn ― 〜の上。
Pei ― 石積み、祭壇。
島の名は、「石積みの上に」。島そのものが石の祭壇の上に築かれたという創世神話にも結び付けられています(語源には諸説あります)。
THREE ERAS
ポンペイの伝統史は、大きく三つの時代に分けて語られます。現代の歴史研究でも広く用いられている区分です。
建設・定住の時代
人々が島に住み始め、集落や祭壇が築かれた時代。考古学では紀元後1〜2世紀頃の生活の痕跡が確認されています。口承では、祖先たちは「カタウ」と呼ばれる遠い土地から航海してきたと語られています。
王朝の時代
島全体が初めて統一され、政治と宗教の中心としてナンマドールが築かれた時代。世界遺産として残る巨大な石造都市は、このシャウテレウル王朝によって整備されたと考えられています。
首長制の時代
王朝の終わりとともに、各地域の首長が土地を治める分権的な社会へ。このナーンマルキ制度は現在も受け継がれ、儀礼や地域社会の中で大切な役割を担っています。
MYTHS & LEGENDS
文字を持たなかった時代、ポンペイの人々は火を囲み、物語を語り継ぐことで歴史を伝えてきました。ここからご紹介するのは、歴史的事実ではなく、幾世代もの声によって磨かれてきた三つの物語です。
第一話
はるか昔、ここにはまだ、島の影すらありませんでした。神の導きを受けた航海者たちが果てしない海をわたり、この場所にたどり着きます。一行は祈りを捧げ、サンゴ礁の上に石と土を積み上げて、神々のための祭壇を築いたといいます。
その石積みの上に少しずつ土が重なり、緑が芽吹き、やがてひとつの島が生まれました。人々はこの島を「ポンペイ——石積みの上に」と呼ぶようになります。島の名前そのものが、この創世の物語を今に伝えているのです。
祖先は東方の土地から渡来した、など島のはじまりにはいくつもの語りが残されています。
第二話
あるとき、西のかなたにある神話の国カタウ(Katau)から、オリシーパ(Olisihpa)とオロショーパ(Olosohpa)という双子の兄弟が海をわたってきました。ふたりの使命は、農耕の神ナニソーン・サープ(Nahnisohn Sahpw)を祀る祭壇を築くこと。兄弟は島じゅうを巡り、何度も場所を選び直した末に、テムウェン島(Temwen)の沖に広がるサンゴ礁を選びます。
けれど、祭壇に使うのは人の手には余る巨大な玄武岩。ふたりは静かに呪文を唱えました。すると石はひとりでに宙へ浮かび、鳥の群れのように海を越えて、次々とサンゴ礁の上へ舞い降りたといいます。こうして築かれはじめたのが、のちに「太平洋のベニス」と呼ばれる海上都市ナンマドールでした。
英語圏には「空飛ぶ龍の力を借りた」と語る版もあります。考古学では筏や丸太で石を運んだとする説が有力ですが、数十トンの石をどう積み上げたのかは、今も解き明かされていません。
第三話
栄華を極めたシャウテレウル王朝も、末期には神々への敬意を失っていました。とりわけ雷神ナーン・サープウェ(Nahn Sapwe)をないがしろにしたことで、怒った雷神は島を去り、東方の土地カタウへ。そこで人間の女性とのあいだに生まれたのが、神の血を引く子、イショケレケル(Isokelekel)でした。
成長したイショケレケルは、333人の仲間とともに海をわたります。島を巡って各地の人々と心を通わせ、ついにナンマドールで王朝との決戦へ。長い戦いの末に王朝は倒れ、島には新しい時代が訪れました。
王となったイショケレケルは、ひとりがすべてを支配する道を選びませんでした。各地域に首長を置き、土地ごとに治める新しい仕組みへ。それが、400年を経た今も続くナーンマルキ(Nahnmwarki)制度のはじまりと伝えられています。
最後の王は魚に姿を変えて逃げた、川に身を投げた——結末は語り手によってさまざま。「333人」も実数ではなく、象徴的な数字と考えられています。
どの伝承が正しいのか、と問う必要はありません。それぞれの物語が、それぞれの土地で大切に語り継がれてきました。ポンペイでは、神話は過去のものではなく、今も人々とともに生きています。
MYSTERIOUS RUINS
ジャングルの奥、苔むした岩の表面に、渦を巻く模様や魚のような形が刻まれています。誰が、いつ、何のために刻んだのか——記録はほとんど残っておらず、島の人々のあいだでも詳しい由来は謎のままです。
ナンマドールほど知られていませんが、文字を持たなかった時代の人々が石に託した何かを、静かに伝え続けている場所です。



TIMELINE
定住のはじまりから、世界遺産登録まで。
紀元前1000年頃〜
オーストロネシア系の人々が島に住み始めたと考えられています。口承では、祖先は「カタウ」から航海してきたと語られます。
8〜9世紀頃
ナンマドール周辺のサンゴ礁の上で、人工島の造成が始まります。
12〜15世紀
島全体が統一され、巨石建築が本格化。ナンマドールが政治と宗教の中心として栄えます。
16〜17世紀頃
英雄イショケレケルの伝説の時代。王朝が終わり、現在まで続く首長制の社会へ移行します。
1595年
スペインの航海士キロスが来航。19世紀には捕鯨船や貿易商、宣教師が訪れるようになります。
1886年
スペインの植民地となります。コロニアには今も「スペイン壁」と呼ばれる石造建築が残ります。
1899年
カロリン諸島がドイツへ売却されます。道路建設が進む一方、1910年にはソケースの反乱が起こりました。
1914年
日本海軍の占領を経て、委任統治領「南洋群島」の一部に。学校や病院、道路が整備され、多くの日本人が移住しました。
1947年
第二次世界大戦後、国連信託統治領としてアメリカの統治下に入ります。
1979年
ポンペイ、チューク、ヤップ、コスラエの4州で連邦が誕生。首都パリキールはポンペイ島に置かれました。
1986年
アメリカとの自由連合盟約が発効し、独立国家として新たな歩みを始めます。
2016年
太平洋文明を象徴する遺跡として世界文化遺産に登録。同時に危機遺産にも指定され、保全活動が続けられています。
※ 年代には諸説があります。
SAKAU CEREMONY
キン、コン。
キン、コン。

ペイチェールの上でサカウの根を潰し、ハイビスカスの樹皮を重ねる——実際の儀式の様子
コショウ科の植物の根を、ペイチェールと呼ばれる大きな石の上で叩いて潰す。森の静けさに響くその音は、何百年も変わらずに受け継がれてきた島の鼓動です。
水を加え、ハイビスカスの樹皮で濾したサカウは、儀礼や大切な話し合いに欠かせない神聖な飲み物。酔うためではなく、人と人が向き合い、時間を共有するための文化です。収穫祭、結婚、歓迎、謝罪——人生のあらゆる節目に、サカウの儀式があります。
LIVING CULTURE
ポンペイでは、歴史は博物館の中のものではありません。1,000年以上前から続く文化や価値観は、今も人々の暮らしの中に息づいています。
各地区には今も伝統的な首長がいて、儀式や地域社会の中心を担っています。土地の恵みを首長へ献上し、ふたたび地域へ分かち合う。豊かさとは独り占めするものではなく、循環させるもの——そんな価値観が、今も静かに生きています。
毎年10月、収穫した大きなヤムイモをチェーンリックと呼ばれるシダの葉で美しく飾り、首長へ捧げます。一年の実りを祝い、人々が集い、感謝を分かち合う。自然と人のつながりを肌で感じられる、島を代表する伝統行事です。
すれ違えば微笑み、スコールに降られれば当たり前のように軒先へ招き入れ、椅子をすすめてくれる。観光地だから親切なのではありません。人と人が自然につながり、互いを尊重する文化が、この島の何気ない日常なのです。

カピンガマラン村では、木彫りやバスケットが今も一つひとつ手作業で生まれています。祝いの席では、神話や自然への感謝を込めた踊りを、ヤシの葉や花で身を飾って舞う。大量生産では決して生まれない温もりが、ここにはあります。
火山が育んだ肥沃な土壌と、年間5,000mmを超える雨。この島の自然条件が、世界でも有数の香り高いコショウを育てます。島内には栽培から乾燥までを見学できる農園もあり、旅のお土産としても人気です。
何もしない、が最高の贅沢。ポンペイの夕暮れ。

JAPAN & POHNPEI
約30年におよぶ日本統治時代の記憶は、今もポンペイに残っています。日本人が築いた道路、当時の建物跡、日常会話に残る日本語由来の言葉。そして、日本人のルーツを持つ家族。
Pohnpei Ocean Cruiseが日本語で島をご案内できる背景には、こうした日本とポンペイの長い交流の歴史があります。
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